責任がすべてではない
2007/06/15(金)
 今回の 哲学練習帖2も 最後の 命題で 哲学技法の 未熟が 故に いきづまって いる。
3題話し として 3命題を たてた ときは、一番 身近で 簡単 だ とおもっていた。が、簡単には 説得力の ある 論理思考に いきつかない。

 思考する うちに 「責任は とるもの であって、とらせるもの ではない」という ことに 気づいた。
法治国家が 法により 責任を とらせる のは、あらかじめ 量刑の幅を 定めた 結果だ。
封建・独裁国家が 上意 により 責任を とらせる のは、恣意的な 懲罰を まねく。
組織の 内部で 問題が 発生した とき、問題発生者、実行者が 「責任を とらされる」。組織上層部が 関与した 問題に 対して 「実行責任/管理責任」が 問われる。
このとき、組織上層部が 「責任を 問われる」ことや、「責任を とらされる」こと、「責任を とる」こと が 求められ、注目される。それぞれが ちがう 意味の 「責任」の形を もって いそうだ。
「道義的責任/社会的責任」、「保障責任/賠償責任」、「政治責任/行政責任」、「資本責任/経営責任」などと 責任の 種類を かんがえて いくと、際限が ない。法学知識が ないので 論理の 展開が  すすまない。

 年金手帳・社会保険庁の 責任問題、介護事業・グッドウィルグループ/コムスンの 責任問題、これらが 責任問題の 模範解答に なるか どうか。
解答は 「責任がすべてではない」という こと だろう。
が、すべてでない なら 残りは 何だろう。すこしだけ、かんがえを すすめる。「責任」と 相補関係を もつ 概念とは なにか?
たとえば、「権利←→義務」の 相関関係に 相当 する 慣用句が 「責任」に あるだろうか。
「責任←→用命・下命・任命」など しか、相補関係の 語句として うかばない。つまり、自分が 自覚する 「責任」と おなじ程度の 「責任」を 相手に 感じさせる 行動・要求・指示を うまく 表現 する 言葉が ない。
古今の 哲学者 なら 表現の 言葉を つくりだして いる かもしれない。

 畑村洋太郎:「失敗学のすすめ」:講談社文庫 による 失敗事例の 原因調査:成功の秘訣は 「原因追求と 責任追求を 同時進行させない こと」だった のでは ないかな。厚労省・社会保険庁・IT業界・自治体・人材派遣・有識者・政治家・企業・国民を まきこんだ 一大国家事業 に なりそうだ。頓挫だけは さけて ほしい。

 「責任がすべてではない」