3.4【可能態と受動態は住み分けて】
 可能態の説明には、まず「ら抜き言葉」の誤解を払い落しておきましょう。
昔は可能を言い立てるよりも、可能でないことの表現が多かったが、近代では可能
を明確に言い表したいとの風潮がつよくなって、江戸時代以降には可能表現が根付
きはじめた。
【「ら抜き」と早合点したことこそ、日本人の大誤解】
 :「行ける/行かれる」をローマ字つづりで音素解析すれば、すぐ「ら抜き」と解釈
すること自体が誤解だと分かります。
・可能態:行ける→ikeru、:ik[]・e[r]u、
 →(【動詞原形:ik+挿入音素[]】+可能態接辞:e[r]u)
・受動態:行かれる→ikareru、
 →(【動詞原形:ik+挿入音素[]】+受動態接辞:ar・e[r]u)
つまり、受動態接辞=結果態接辞+可能態接辞だから、結果態接辞を外せば可能態
になるのです。ということは、
★受動態【areru】が意味する「動作の実行完了実績【aru】」を取り除いた「動作を始
 める意思可能【eru】」だけを陳述するのが可能態【eru】です。
・つまり、【aru、ある抜き】が可能態の正体であり、[態動詞生成の方程式]に基づく
 言語運用です。
★母音語幹動詞に対する可能態の生成も同様に[態動詞生成の方程式]を適用できる。
・可能態:見れる→mi[r]e[r]u、起きれる→oki[r]e[r]u、
 食べれる→tabe[r]e[r]u、
・受動態:見られる→mi[r]are[r]u、起きられる→oki[r]are[r]u、
 食べられる→tabe[r]are[r]u、
〇「ら抜き」誤解をして平気でいる日本人が多すぎるし、特に「ある抜き」正解して
 いる有識者が公言に踏み出していない場合もあります。
 逆に誤解を正当だと公言する人は多いです。
残念ながら現実に適応できない学校文法を盲信する人、もしくは影響下にある人が
多すぎます。
可能態=受動態−結果態、であり、また、受動態=結果態+可能態、だと銘記
 しましょう。(「可能態」と「受動態の結果可能」とは意味が違うのです)
〇自分の頭脳で考えるためにも、①ローマ字つづり音素解析(ひらがな解析に落し
 穴)と②態動詞生成の方程式、③「態の双対環」が便利な道具になるはずです。

【「す」語尾動詞の可能表現を救済しよう】:ついでに母音語幹動詞も救済すべき。
 動作意思の可能表現を受動態から独立させることに最優先で歓迎したのは、「す」
 語尾動詞だろうと推測します。
・渡す/渡せる:可能!/渡さる/渡される:受身!・可能? 
 (対物他動詞の「双対環」)
・出す/出せる:可能!/出さる/出される:受身!・可能?
 (対物他動詞の「双対環」)
・隠す/隠せる:可能!/隠さる/隠される:受身!・可能!
 (対物他動詞の「双対環」)
・立たす/立たせる:可能?/立たさる/立たされる:受身!・可能?
 (対人強制の「双対環」)
・任す/任せる:可能?/任さる/任される:受身!・可能
 (対物対人強制の「双対環」)
〇「す」語尾の他動詞でも、対物か対人強制かで「可能表現」と感じる程度が異なる
 ようです。
対物他動詞では可能態が有効に機能します。特に「隠す」は自分だけで実行する
動作ですから、受動態でも可能表現を感じられます。
〇「す/s」音の動作は他へ向かって作用を放出する深層感覚があるので、受身なら
 他人から放出された動作を受ける感覚になります。反対に「す」語尾動詞の受動態
 では、自分の動作可能の表現が手元に残らない印象になり「可能表現」が成り立た
 ないのです。(江戸後期から未然形文法を飛び越えて可能動詞を使い出した)
〇強制態は「す」語尾動詞ですから、可能態接辞を付加した強制可能態:as・eru、
 つまり、使役態接辞:aseruを使うと「す」に「る」を加えて、いくぶん自律動作
 性を追加するようになったのだろうと推測します。
 使役系にすると、態表現がぎくしゃくするが、我慢のしどころでしょうか。
・立たせる/立たせれる:可能!/立たせらる/立たせられる:受身・可能
 (対人使役「双対環」)
・任せる/任せれる:可能!/任せらる/任せられる:受身・可能
 (対人使役の「双対環」)
・走らす/走らせる:可能?/走らさる/走らされる:受身!・可能?
 (対人強制の「双対環」)
・走らせる/走らせれる:可能!/走らせらる/走らせられる:受身・可能
 (対人使役の「双対環」)
〇強制系では受身表現が強烈で、使役系では受動態が重装備的で可能態も今一か。

<さて「ある抜き」可能態は、母音語幹動詞にも適用すべきです。>
〇態動詞生成の方程式=「【母音語幹+挿入音素[r]】+態接辞」を適用できます。
・考える/考え[r]e[r]u:可能!/考えらる/考え[r]ar・e[r]u:受身!・可能!
 (自律動作の「双対環」)
・考え[r→s]asu/考えs・as[]e[r]u:使役化!/考えささる/考えさされる:受身!
 ・可能?
 (律他動作の「双対環」) (挿入音素「r→s」交替は強制系へ移行時に必要)
・考えさせる/考えさせれる:可能!/考えさせらる/考えさせられる:受身!
 ・可能! (使役動作の「双対環」)
〇本節で記述していることは、日本語の動詞が持っている感覚的な感性です。
 直感的なことばの感覚ですから、繰り返し読み返して考えて、読み返して考えて
、どんな語感が立ち現れるか試してください。「ら抜き誤解」を卒業できましたか?
〇何年かあとには、正式に「ら抜き誤解」が解消される時代が来るでしょう。その時
 でも、「可能態」と「受動態の結果可能」との意味の差が尊重されて、確実に区別し
 て使用される状態を提起しているのです。

【可能態と受動態の意味の差】:有意差を感じ取れるはず。
 前項、「す」語尾の「双対環」操作で可能感得の可否を述べましたが、可否の「深層
感覚」を共感できたでしょうか。 可能態は「す」語尾の動詞の救済から始まったと
仮説を述べましたが、態文法を再生していくためにも、母音語幹動詞を含めて全動
詞に対して可能態を適用できると記述したい。
★「態の双対環」方式では、全動詞で可能態と受動態(の結果可能)が併存すべきだと
 提案します。
・可能態が表現する可能は、「動作意思の可能」です。
・受動態が表現する結果可能は、「動作実行、完了、実績の可能」で、「予測動作の完了
 可能の予測」でもかまいません。

【例1】構文を読み込んで有意差を感じてほしい。
・可能:「それくらい、考えれるだろ?」
 (考える動作を期待し、解答まで期待してない)
・受動:「難問だけど考えられるだろ?」
 (考える結果を、解答まで期待している)
・可能:「この書棚では探せないね」
 (乱雑すぎて探す動作が困難らしい)
・受動:「あっちの書棚はもう探されたんだがね」
 (動作完了、実行済みを表明)
・可能:「絵本、読めたら楽しいね」
 (幼児に読み聞かせの段階、読む動作に関心あり)
・受動:「この文章、読まれたらどんな反応があるだろう」
 (受身でもあり、動作結果の反応を待つ)
可能態接辞:eruは、「動詞原形+になる/にする」の形態で自他両用の意味です。
受動態接辞:areruは、「動詞原形+あるになる/あるにする」の形態で自他両用の
意味があります。
「ある」になる/「ある」にするは、「結果、実行、完了、実績」になる/「結果、実
行、完了、実績」にする、これが受動態ですから、単純な可能態とは意味合いが違い
ます。片方だけでなく両方が必要な態なのです。

【例2】打消し構文の受動態と可能態を比較して有意差を感得してほしい。
 受動態動詞が肯定構文で当然使われるし、打消し構文でも使われます。
・「大丈夫です、吊革につかまれますから」
 (結果態動詞:つかまりますから、でもOK)
・「昨夜はぐっすり休まれたから、調子回復です」
 (結果態動詞:休まったから、でもOK)
(結果態動詞も肯定文で使うと可能なことだった意味合いになり、結果+可能=受動
態での表現を好むのかも分かりません←「分かる」は結果態が合いますね)
昔は受動態を否定構文で使うことが多かった。現在でも関西方面では打消し受動態
の用法は普通のことのようです。
・「このスープ、熱つうて飲まれへん」
 (飲むを実行できない、「飲める」と思ってもダメ)
・「残念だけど旅行に行かれないんだ」
 (行くを実行できない予測だ。手を尽してもダメの予測)

〇昔の成句では、感情と結果を対比的に受動態打消しを使って表現しています。
・泣くに泣かれぬ気持だった
 (思いと結果の相克・対比が明白で、自律としては制御不能だと感じます)
×泣くに泣けない気持だった/泣こうにも泣けない気持だった。
 (意思の相克だが、意思で鎮めた感じになる)
・止むに止まれぬ気持から、、、
 (思いと結果の相克・対比が明白で、自律制御ができない状況を感じます)
・言うに言われぬ苦しみを、、、
 (筆舌に尽し難い苦しみ、思いを言い尽せない程の苦しみを想起させます)
×言うに言えない苦しみを、、、
 (逡巡するが、意思で律することができるほどの苦しみを)
もちろん、この成句ができた頃は受動態で可能を表すことが普通のことだったと思
われるが、だから当然、受動態打消しが「自律制御からの逸脱状態、人為を超えた成
行き」を表現していたのだろう。

【例3:個の可能態/多の受動態可能】:大事を忘れずに!!
〇可能態:動作意思としての可能を述べるので、「個人の、一回限りの可能動作」
 が表現の中心です。
〇受動態の可能:個人の実績としての繰り返し可能や、社会・大衆の習慣的可能動作
 などを含め、多数回の可能状態を表現するものです。
(「個の可能態」と「多の受動態可能」:この大事な意義の差が忘却されては、、、)
・「このキノコは/を食べれる」:食べても問題ない。食べる気になってもよい。
・「このキノコは食べられる」:食材の実績がある。世間でも食べられている。

【例4:「のり・つっこみ」の対比】:大阪人の論理が生きる
〇「これで書かせるってぇ? 絵日記を?」、「忘れんうちに」、
 「あかん、書かれへんがな、綿あめだぁ」
〇使役態の「書かせる」の律他動作の鏡像関係に相当する「書かれる」:受動態を能動
 詞的に使用する大阪語風の例なのでしょう。「r/s」交替の精神、大阪にあり。


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